Olympic Mess   樋口恭介


 黄昏。大東京帝国の興亡。
 漂っている。スモッグの隙間からこぼれ落ちた光がビルの窓に反射する。私はそれを眺めている。
 ヘッドフォンを外すと旧市街からデモ隊の音が聞こえてくる。ここのところ毎日だ。私は小さくかすかに響くその音にむかって歩いていく。



 昔のことだ。
 最初の出征から夫がネオ東京へ戻ったとき、彼は左腕を失っていた。左肩から力こぶにかけて包帯が巻きつけられ、その先には何もなかった。私はそのときの印象を思い出している。
「よく来たな」
「ここが戦場?」
「そう、ここが戦場だ」



 買い出しは終わり、今夜の食事の準備は済んでいる。
 私たちは再会を喜び固く抱きあったが、実のところ、喜びを覚えるよりも先に、私は彼の姿を見て驚き悲しく思った。
 私は彼の肩に顔をうずめた。しばらくのあいだそのままにしていた。



 病院は旧市街を抜けた先にある。
 デバイスは持っていない。新政府配信の監視カメラアプリは必要ない。
 今朝の情報震でサーバーは落ちて、データは飛んでしまった。だけど問題はない。私は危険の少ない道を知っている。
 子どものころは旧市街に住んでいた。私の夫は軍人だったが、彼はどちらかと言えば軍人というよりも政治家だったから、先のクーデターのあとで裁判をかけられ、戦犯として処刑された。不思議なことだ。
 何事にも裏道がある。私は記憶を頼りに裏道を通って歩いていく。
「なあ、こうやってると思い出さないか。みんなで一緒にいたころのことを」



 路地の隙間から、デモを囲む警官たちがぞろぞろと歩いていくのが見える。
 夫は関東軍情報部に所属していた。裁判では、情報震は関東軍による人工地震であるとする陰謀論が主張されていた。でも本当はそうではなかった。戦後処理がまだ終わっていない中で、そんなことができるわけがなかった。
 音は少しずつ近づいてくる。遠い鼓笛の律動。崩れたコンクリートを踏み砕く隊列。音楽。ビート。シュプレヒコール。ラップのようなかけ声。
 私はそれを聞いている。



「泣いてるの?」と彼は言った。
 私は何も答えることができなかった。私は黙ったまま、静かに震えているだけだった。
「大丈夫だよ」と彼は言った。
 私は何も言わなかった。



 音が一段と大きくなった。
 私のお腹の中には子どもがいる。私たちの間に、もうすぐ子どもが生まれる。
 新しい神様が生まれて、30年が経とうとしていた。
 2019年。ネオ東京。第三次世界大戦。それから続く内戦。
 誰もが何かの力にくっついていた。本当はみんな、とうの昔からカルト化していた。
「騒ぐな!」
「落ち着くんだ!うろたえるんじゃない!」
「そうだよ!殺すんだよ!」



 旧市街に入ると、排気ガスで目がくらんだ。
 病院は近づいていた。風が吹いて、ざらつく砂塵が顔を撫でた。私はバックパックからガスマスクを取り出した。
 ガスマスクを装着しながら、明日は今日よりも良い日になるだろう、と私は思った。
「心にやましいことがあるから、いつもそうやってるんだろ」
「やつはまだ、俺たちの中に生きてる」



 時代は動いている。
 良いほうへ、より良いほうへと。今よりもずっと。たぶん、きっと。
 ラジオのニュースは繰り返しそれを伝えていた。
「私たちはいつも一緒よ」
 そう、私たちは、これから先も、ずっと。



「未来は一方向にだけ進んでいるわけではないわ」
 私はそれを知っていた。ずっと昔から。
 1940年。1964年。それから2020年。
 新しい東京。
 新しい暴動。
 新しい私たち。
 私たちの、オリンピック前夜の混乱。



註:作中、「」内の台詞については、大友克洋原作『AKIRA』(講談社)、大友克洋監督『AKIRA』(バンダイビジュアル)を参照し、一部改変の上引用した。







樋口恭介
SF作家。『構造素子』で第五回ハヤカワSFコンテスト大賞を受賞